「貞享義民一揆の実像」(田中薫著)を読む

15.08.14

 「貞享義民一揆の実像」(田中薫著、信毎書籍出版センター)を読み終えました。1686年(貞享3年)松本城下で起こった近世最大規模の百姓一揆、その中心人物の名を取って「貞享加助騒動」とも呼ばれるたたかいの研究書です。
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 先般、安曇野に「貞享義民記念館」を訪ねたときに買い求めてきました。義民と言えば、わが房総の佐倉惣五郎が有名ですが、残念ながら、その史実を立証する資料がないようです。しかし、この「貞享義民一揆」のほうは、豊富な資料と史跡が残っています。

 貞享3年10月14日(もちろん旧暦)に、騒動は始まります。例年、籾一俵、玄米にして3斗になるように納めていたところ、今年は、3斗4~5升になるように入れろという藩役人の命令が出ます。しかも、当時の籾には、長い「のぎ」(稲の先毛)があり、俵に籾が余計に入るように、その「のぎ」を取り除くようにとの命令です。それにはまた、たいへんな手間と労力がかかります。

 藩役人が、加助の村(中萱村)に来たときに、前庄屋の加助がその理由を糺します。役人らは、加助を杖で打ち据えようとしますが、激しい争いになります。

 加助らは、「のぎ」取りは迷惑だ、他領並みに一俵あたり2斗5升にしてほしい、など要求を5か条にまとめ、城下へと繰り出します。16日には、城下に1700人以上が押し掛けたといいます。

 恐れをなした藩側は、要求を呑む回答書を出しますが、農民たちが引き上げると、ただちに首謀者の捜査・逮捕に踏み切り、詐欺的な手法で回答書を回収してしまいます。多田加助以下、8人が磔、その家族・子どもらを含めて20人が獄門という過酷な処罰が下されました。

 しかし、一俵あたり2斗5升とはならなかったものの、旧来通りの3斗ということになり、「のぎ」取りも免除になります。他の要求についても、ほぼ農民たちの要求通りの決着をみています。

 やがて、藩主水野家が改易になると、50年忌などということで、加助たちを顕彰する石碑などが建てられるようになり、現在まで語り継がれることになります。

 「貞享義民記念館」は、安曇野市立の施設。入り口の両側には、右に「世界人権宣言」の第一条が、左に日本国憲法の第11条と12条が書かれた、モニュメントが立っていました。市立でこうした施設が運営されていることに感動すら覚えました。訪れたとき館内は、私たち夫婦だけ。受付の職員さんに「どちらからおこしですか」と聞かれました。
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 当時の藩と農民たちとの間で取り交わされた文書や展示物などをゆっくり見て回った後、道路を挟んで反対側の多田加助宅跡(「貞享義民社」という神社になっていました。)やその裏手にある多田加助のお墓にお参りしてきました。
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 加助たちのように庄屋層でありながら、農民たちの先頭に立ってたたかった人間もいれば、庄屋層のなかから選ばれた「組手代」と呼ばれる村役人のなかには、自分の組から騒動参加者を出さないようにするために、槍で武装するなどして抑え込む者もいました。そのくせ、仮に農民たちの命がけの要求が通ったら、自分たちの組にもそれを適用してもらえるよう藩との間に約束を取り交わし、騒動後には、藩から「籾10俵」などのご褒美をいただいています。いつの時代にも、こうした輩はいるものだと、少々悲しい気持ちにもなりました。名をこそ惜しみたいものです。

 最後に、磔にされた8人だけ、その名前を書きつけておきたいと思います。
 中萱村  多田加助
 楡村   小穴善兵衛
 大妻村  小松作兵衛
 氷室村  川上半之助
 堀米村  丸山吉兵衛
 梶海渡村 塩原惣左衛門
 浅間村  三浦善七
 岡田町  橋爪善七
                    合掌

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