「レーニンと資本論」と「下級武士の食日記」

16.12.04


 不破哲三さんの「レーニンと資本論」の第6巻「干渉戦争の時代」と第7巻「最後の三年間」を読み直しました。ほこりを払ってページを繰ると、ところどころに赤ペンのラインが引いてあって、確かに読んだらしい形跡はあるものの、記憶は、はなはだ頼りないものです。改めて、太い赤ペンで、ところどころは二重になっても、線を引きながら読みました。

 この間、各地で日本共産党「綱領講座」を行っていますが、そのなかで、いつも気になっていて、確認したいと思っていたことがありました。講義で詳しくしゃべったりするわけではありませんが、レーニンが、干渉戦争の中で「戦時共産主義」に踏み込んでいった経過やその干渉戦争に勝利したのち、どんな経験と条件の中でその誤りを克服し、「新経済政策」「市場経済を通じての社会主義建設」という方向への大転換を成し遂げていったのか、議会制度の否定と強力革命を必然とする「国家と革命」の立場から、労働者だけでなく「被搾取勤労住民の多数者」の獲得を重視し、「統一戦線」を強調する立場への大転換が、どのような情勢と認識の発展のもとに行われたのか、しっかり押さえた上で臨みたいと思っていました。
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 内容は、とてもかいつまんで紹介できるようなものではありませんが、世界初の社会主義の政権をつぶそうと、ロシア国内の反動派と結託し、イギリスのチャーチル主導のもと、日本を含む14ヶ国が軍事干渉を展開するなかで、それをはね返す戦いを指導しながら、第一次大戦と干渉戦争で荒れ果てた国土を立て直し、ソビエトロシアを守り抜く仕事は、並大抵のことではなかったでしょう。(こうした激務がレーニンの寿命を縮めたことは疑いないと思います)

 「余剰穀物」をすべて取り上げられ、窮状を訴える農民の声を直接聞き、ただちに、それを生かして生産物の「割り当て徴発」から「穀物税」へと転換し(1921年3月)、7か月後には、「市場経済」の正面からの承認に踏み出すレーニン。住民の寄り添い、現場から柔軟に学ぶレーニンの姿に、感動を覚えました。

 干渉戦争に勝利し、各国が軍隊を引き揚げるのが1920年の夏ごろ。(そのなかで日本軍だけは、1922年までシベリアに居座り続けました。)ロシア一国で、資本主義列強に交じって生き残ることができる、生き残れた、「資本主義との共存」という新しい条件の下で、レーニンの国際情勢の認識は、大きな転機を迎えたようです。「多数者の獲得」「統一戦線」「被抑圧民族との大同盟」。しかし、残された時間はあまりにも少ないものでした。レーニンが再起不能の3回目の発作に襲われたのは、1923年の3月です。

 文字通り、興奮しながらページを繰りました。ただ読むのと問題意識を持って読むのとでは、ずいぶん違うものだと実感しました。

 疲れると、「幕末単身赴任 下級武士の食日記」(青木直己著)を楽しみました。和歌山藩の酒井伴四朗、28歳。わずか二十五石という下級藩士が、万延元年(1860年)に江戸勤番を命じられ、赤坂紀の国坂の和歌山藩中屋敷に単身赴任します。
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 その伴四朗が克明な日記を残してくれていて、本書は、そのうち主に食生活に焦点を当てて、伴四朗の日常を解説してくれています。

 万延元年といえば、桜田門外の変。世情騒然という感じですが、伴四朗の日常には、まるで入り込んできません。浅草や目黒不動への参詣だ、鷲(おおとり)神社の祭礼だと出歩いては、蕎麦や寿司はもちろん、泥鰌鍋だ豚鍋だ(幕末はずいぶん食べていたようです)とおいしそうなものを食べています。そして、昼間っからお酒を飲んでいます。

 仕事は、衣紋方。おじの宇治田平三が殿様の衣装・装束に関する責任者で、伴四朗は、助手といったところでしょうか。しかし、仕事は、多いときでも月の半分。まったくない月もあります。気楽なものです。

 大藩の下級武士は気楽でいいなぁ、と思っていたら、第二次長州戦争のときには、戦場に引っ張り出されていました。やっぱり伴四朗も武士でした。

 伴四朗の日記は、まだまだ書き残されているはずですが、未発見の部分が多いようです。どこかの蔵の奥にでも眠っているのかもしれません。なんとも親しみのもてるいい奴で、時代を超えて、友達づきあいをしたくなりました。

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