渡辺政之輔没後89年「墓前祭」と「語り合うつどい」に参加

17.10.03

 市川市の「渡辺政之輔を偲ぶ会」主催の「渡辺政之輔没後89年墓前祭」と、引き続いて開かれた「語り合うつどい」に参加してきました。

 政之輔の墓は、市川市の「安国院」というお寺にあります。1928年10月6日、上海からの帰途、台湾のキールン港で警官隊に包囲され、持っていたピストルで自死します。29歳でした。
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   写真   渡辺家、渡辺政之輔の墓
 遺骨は、翌年11月に母親てうさんのもとに戻されますが、安国院でのその納骨式では、「母てうの焼香だけが許されただけで、東京から参会しようとした者は、すべて途中で検束された。」(「渡辺政之輔とその時代」学習の友社 加藤文三著)ということです。
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 墓前祭では、全員が線香を手向け終わった後、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟千葉県本部会長ということで、私がご挨拶させていただきました。
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 続いて、場所を移して「渡辺政之輔を語り合うつどい」が開かれました。ここでも冒頭、国賠同盟会長としてあいさつをさせていただきました。つどいでは、労働者教育協会理事の藤田廣登さんが約1時間にわたって、「南葛労働会と渡辺政之輔」との演題で講演。「東の渡政、西の山宣」と呼ばれた渡政については、南葛労働者のたたかいや「亀戸事件」とともに小林多喜二もよく知っていて、上京した多喜二は、すぐに「亀戸事件」の現場を訪れたとのことです。その際に亀戸天神の太鼓橋で写した写真が今に残っています。
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   写真   講演する藤田廣登さん
 藤田さんは、若い渡政が、東京帝大新人会などとの交流のなかで急速に学習を深めつつ、労働組合の指導者として成長していく過程を追いながら、やがて全国から活動家を結集して幹部として育成していく活動にも没頭したと、その先見性にも注目しました。

 渡政は、1922年7月に日本共産党が創立されると、その直後に入党。弾圧の嵐が吹き荒れるなか、日本共産党委員長も務めました。

 戦前のこうした先人たちのたたかいのあとを振り返り、その「不屈」のたたかいを今に生かすことは私たちの責務であり、先人たちの文字通り命をかけた労苦に報いることだと思います。当面の総選挙での躍進を胸に誓いました。

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