中国 南京大虐殺の現場を見てきました

19.05.05


 5月1日から昨日まで、メーデーや憲法集会を割愛して、富士国際旅行社の「中国 南京スタディーツアー」に参加、南京大虐殺の現場を見学・学習してきました。
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 中国訪問は初めてのこと。まずは、成田空港から上海空港へ。そしてガイドの曹さんが言うところの「新幹線」に乗って南京へ。曹さんは、あの三国志で有名な曹操ゆかりの14家族の一員だとのことでした。
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 上海も南京も駅を降りた瞬間から、20~30階建ての高層ビル群が立ち並び、しかもいたるところで巨大なクレーンが建設作業中。道路には、ドイツ車を中心にした車があふれていました。人民服や自転車で埋まった道路という私のなかの中国は、木っ端みじんに 打ち砕かれました。
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 翌2日は、お目当ての「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」。中国を侵略した日本軍による大虐殺の記念館ということです。ところが、バスで着いてみると人・人・人、そして人の山。入口まで、何百メートルも、何重にも入館を待つ人が並んでいます。これは、入館できるまで数時間は並ばなければならない、とのことで急遽予定を変更。まずは、辛亥革命で清朝政府を打倒し、中華民国臨時大総統に就任した孫文らの政府が置かれた「総統府」へ。聞けば、中国でも今年から、メーデーからの四日間が連休になったとのこと。私たちの旅行日程と全く重なっていました。
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   写真   総統府も人、人、人の列
 「総統府」へ着くとしかし、ここも人、人、人でびっしり。少し、空くのを待とうということで、「南京利済巷慰安所旧址陳列館」へ。いわゆる日本軍が南京占領後につくった慰安所の跡です。「看護師にならないか」とここに連れてこられ、3年もの間、日本軍の性奴隷を強いられるという被害を受けた朝鮮籍の朴永心さんが、2003年にここを訪ね、自分が押し込められていた部屋を確認、その証言に基づいて修復、展示の作業が行われ、2015年に正式に開館したとのことです。
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 建物の外には、慰安婦として人間の尊厳を奪われた女性たちの像が設置され、被害者たちの写真も大きく展示されていました。朴さんのいた部屋は、6畳一間ほどの狭いもので、来る日も来る日も、そこで日本の兵隊たちに凌辱される生活を強いられたのです。胸が痛くなる思いでした。
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   写真   慰安所の内部。廊下を挟んで両側に小部屋が並んでいる。
 続いて、「総統府」へ。やはり、人、人、人。しかし、ガイドの曹さんの知恵で、「高齢者が多い」との理由で、特別扱いをしてもらい、待たずに別の入り口から入場することができました。しかし、中も人、人、人。とても見学どころではありません。ガイドさんや同行の皆さんにはぐれないように、人をかき分けて歩いたという感じでした。
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   写真   孫文(中山)の居室か蒋介石の執務室か、確認もできないような状況でした
 その後、南京入城の際、日本軍によって熾烈な攻撃が加えられ、また虐殺の現場にもなった「中華門」へ。都市全体を30キロメートル以上にわたって、これだけの城壁で囲んでしまうというのもすごいことですが、とりわけ「中華門」は、門自体が四重の作りになっていて、近代以前の戦いでは、決して陥落させることはできなかっただろうと思いました。
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   写真   中華門の一番外側の門の上から城内を見る
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   写真   連続するトンネルではなく、四重の門
画像 「中華門」の威容に圧倒された後は、「南京民間抗日戦争博物館」へ。ここは、建設資材を扱う会社を経営する呉先斌(ごせんひん)さんが、私財を投入して作った施設。呉さんが館長を務めていて、入場料も取っていません。年間約5万人、日本からも200人ほどが来館するといいます。
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   写真   展示の一部
 日本や中国大陸、台湾などから集めた南京大虐殺や戦争にかかわる資料が展示されています。見学後、呉館長や虐殺被害者の遺族の話を聞き、懇談をしました。「若い人たちにしっかり伝えていきたい」という呉館長。虐殺を否定する日本の右翼とも、交流があったと聞き、驚きました。
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   写真   白い帽子が呉館長。左は、通訳をするガイドの曹さん。
 次に訪問したのが、揚子江沿岸・中山ふ頭の捕虜虐殺現場。そこには、「侵華日軍南京大屠殺 中山埠頭遇難同胞記念碑」(中国では、著しく簡略字化が進んでいて、碑文の文字はこの通りではありません)と書かれた目立たない碑が建てられていました。
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 ある日本軍将校の陣中日記、1937年12月16日付には、「捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引き出し、Ⅰ(第一大隊)に於いて射殺す。・・・軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し。」とあり、翌17日の日記によれば、残りの三分の二が虐殺されています。また別の兵の陣中日記16日付には、「(捕虜)二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し、護衛に行く。そして全部処分を終わる。生き残りを銃剣にて刺殺する。」とあります。ここだけで、捕虜の虐殺数は、1万7千から2万に達しています。

 そこから堤防の上に出ると、揚子江です。最も狭いところで幅7キロメートルとのこと。ここに、日本軍は虐殺した死体を流しました。今ここは、それと知らなければ、素敵なデイトスポットのようにきれいに整備がされています。
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 これで長い一日は終わりです。揚子江に沈む夕日に見送られるように、ホテルへと向かいました。3日目以降は、また後日。

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