「平和・連帯の旅」その③・731部隊の細菌戦の現場・常徳へ

19.10.21

 昨夜のうちにバスで常徳市へ移動。明けて16日、ホテル近くの弁護士事務所「湖南博集律師事務所」に向かいました。旧日本軍731部隊による細菌戦の被害を調査・研究している弁護士事務所です。

 事務所に入ると左手の壁いっぱいのスクリーンに「熱烈歓迎 治安維持法国家賠償要求同盟」の文字。
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 双方の代表のあいさつのあと、さっそく被害者・遺族の方々からの証言を聴きました。最初は、徐万智さん。1941年11月4日、徐さんの町に細菌弾が投下されました。徐さんは当時、まだ赤ん坊。家族や知り合いから、当時の悲惨な状況を何度も聞かされて育ったのでしょう。

 その日、日本軍の飛行機が徐さんたちの町の上空を2回ほど旋回。爆撃はなく、細かな布のようなものを撒いていったといいます。その後、市民の間に、原因不明の病が流行り出します。当局からは、死体を火葬するように指示が出たといいますが、当時は土葬の習慣が根強く、したがって郊外にも病気は広がっていくことになりました。
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 2年後、徐さんの父親も感染。原因がわからず、対応策もなかったといいます。高熱を発し、のどの渇きを訴え、やがて意識を失い死亡しました。おじやいとこも同様に、鼻や口から出血して亡くなりました。兄も、看病していた祖母も感染し、死亡。徐さん自身も感染しましたが、看る人もなく、叔父の家に引き取られたそうです。

 淡々と話していた徐さんの声が一段と高くなり、涙を流し始めました。「日本政府は、事実を認めないし、謝罪もしていない。人間として、理解できない。」怒りの涙でした。「ぜひ、日本に帰って伝えてほしい。」徐さんの振り絞るような訴えでした。

 続いて報告に立ったのは、丁徳望さん。86歳だといいますから、当時は8歳から9歳だったのでしょう。自宅は、市内から50キロほど離れていたといいますが、父親が感染して亡くなりました。父親は、1942年9月、家族の結婚式に出席して感染、わずか3日後に亡くなったといいます。7人家族唯一の働き手で、40歳だったそうです。
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 丁さんは、2001年に訪日し、裁判で証言もしたといいます。判決では、7643人の被害者数を認めたものの、日本政府には、何らの動きもないといいます。「生きている限りたたかう」丁さんは、静かに決意を述べて結びました。

 さらに、易友喜さん。まだ56歳という若さですが、被害者の遺族で「常徳市日軍細菌戦受害者協会」の職員だとのことです。「協会」の本部が、この弁護士事務所のようです。易さんの祖父も、葬式に参列して感染、他の8人とともに亡くなったとのことです。
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 小柄ですが精悍な感じのする弁護士事務所の所長さんから、細菌戦被害の全体像などの説明がありました。「4/11朝目的方向ノ天候良好ノ報ニ接シ・・・○五三○出発 ○六五○到着 霧深シ・・・層雲アリシ為一○○○m以下ニテ実施ス(増田少佐操縦・・・20/11頃猛烈ナル『ペスト』流行、各戦区ヨリ衛生材料ヲ収集シアリ・・・」などと、細菌戦を報告する11月25日付の「井本日誌」なども紹介されました。
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 その後、場所を移して被害者のみなさんとともに昼食、懇親を深めました。徐さんの隣に座って、片言で、それでもほんの少しだけ意思が通じたのは、何ともうれしいことでした。
DSC03083 (2).JPG   写真   中央、帽子の人が徐さん
 昼食後は、感染による初の死者を看取り、それが「ペスト菌」によるものだと明らかにした「広徳医院」の跡(今は、立派な「常徳市救急センター」になっていました)や、日本軍と熾烈な戦闘を展開した国民党軍の「常徳会戦抗日記念碑」、今も残るトーチカを見学したりしました。
DSC03101 (2).JPG   写真   日本軍との熾烈な戦いをした国民党軍の記念碑
 731部隊については、その凄惨な人体実験や、戦後、その資料を米軍に提供することで罪を免れ、医学界で重きをなしていった人間たちのいたことは知っていましたが、実戦による被害の実態にふれたのは初めてでした。

 加害の歴史が、ほとんど知らされていないというのは、国際的な付き合いをしていくうえで、本当に恥ずかしいことだし、また、この国の平和と人権、民主主義を守り、育てていくうえで決定的な弱点になるものだと思います。知り、学び、伝えるその仕事に少しでも役立ちたい、そんな思いを強くしました。