「伊藤千代子獄中最後の手紙を見る会&多喜二・野呂を訪ねる北海道ツアー」第三弾

 10月24日から26日までの「伊藤千代子獄中最後の手紙を見る会&多喜二・野呂を訪ねる北海道ツアー」報告の第三弾。

 26日朝、ホテルを出てまず向かったのは、多喜二の住居跡。秋田から移住した多喜二一家は、叔父の経営する三ツ星パンの出店として、パン屋を営んでいた。住居の裏は当時、小樽築港の工事現場だったようだが、今は函館本線の小樽築港駅になっている。多喜二はここから、小樽高商(現・小樽商大)へも、勤め先となった北海道拓殖銀行へも通った。「多喜二は朝、店の手伝いをし、時間になると大急ぎで家の裏手から線路伝いに駅へ入って、銀行に通ったんです」と、案内役の同盟小樽支部長・寺井さんが語ってくれた。
DSC04795 (2).JPG   多喜二住居跡の表示

 途中で、墓前に供えるお花を買って、多喜二の墓へと向かう。墓は、多喜二が東京へ出た年、1930年に原稿料から500円を送って、父・末松さんのために建てたものだという。かなりの坂道を登ったところに、「小林家之墓」があった。墓石の裏側には、「昭和五年六月二日 小林多喜二建之」と刻まれていた。もちろん多喜二は、この墓を見ることはなかった。その墓に今は、多喜二も母親のセキさんも眠っている。
DSC04802 (2).JPG   多喜二建立の小林家の墓

DSC04807 (2).JPG   裏には「小林多喜二建之」と刻まれていた

 それぞれが合掌し、千葉県本部の高橋妙子副会長が、代表してお花を供えた。
DSC04810 (2).JPG   献花する高橋妙子千葉県本部副会長

 バスは続いて、多喜二が学んだ小樽高商(現・小樽商大)へと向かった。商大の図書館にある多喜二資料室を訪ねる予定だったが、コロナの関係で入室ができない。しばらくして、図書館からお二方が資料を抱えて出てこられ、バスのなかへ。私たちが見学予定だった資料室の展示をわざわざ写真を撮って、資料にしてくれていた。また、小樽商大創立100周年記念の立派な貴重図書・展示資料解説書をプレゼントしてくれた。
DSC04815 (2).JPG   多喜二が学んだ小樽高商(現・小樽商大)キャンパスの一部

 そのカラーの表紙には、「Das Kapital」の写真。マルクス「資本論」の初版本1000冊のうちの1冊だとか。しかも、「わが友リーナ・シェーラーへ ロンドン 1867年9月18日」というマルクス本人の献辞入りという珍しいものだという。思わぬプレゼントと丁寧な説明に感激した。
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 そしていよいよ多喜二の文学碑のある旭展望台へ。本を開いた形にデザインされた碑は、想像以上に大きなものだった。建設費を集めるにあたって、小樽高商の下級生だった伊藤整が尽力したのだとか。伊藤整は在学中、図書館で本を借りると、必ず先に読んで線を引いたり書き込みをしている学生がいて、それが多喜二だったと回想している。立場は違っても、同窓の偉人として多喜二を尊敬していたのだ。

 「冬が近くなると ぼくはそのなつかしい国のことを考えて 深い感動に捉えられている そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある・・・」文学碑の前ではワタナベコウさんが、碑文を朗読してくれた。村山知義の夫人で児童文学作家・村山かず子に宛てた手紙の一節だ。
DSC04822 (2).JPG   文学碑前で碑文を朗読するワタナベコウさん、右は藤田廣登さん

 展望台からは、小樽の街が一望だった。「運河と倉庫と税関と桟橋」、多喜二が愛した街だ。
DSC04830 (2).JPG   展望台から見える多喜二が愛した小樽の町

 最後に、多喜二が恋人・タキさんとよくデートしたという水天宮に立ち寄った。思いのほか広い境内からは、やはり小樽の港が一望できた。多喜二とタキさんが、踏みしめたであろう境内の土を、私もあちこち踏みしめてみた。境内の一角には、石川啄木の歌碑もあった。啄木も4か月ほどこの小樽に居を構えたという。「かなしきは 小樽の町よ 歌ふことなき人々の 聲の荒さよ」とあった。啄木にとっては、小樽は思いの満たされない悲しい土地だったのかもしれない。
DSC04832.JPG   水天宮の社

 これで「伊藤千代子獄中最後の手紙を見る会&多喜二・野呂を訪ねる北海道ツアー」の全日程が終わった。先人に学び、地元の地道な活動に学ぶ素敵なツアーを企画し、獅子奮迅の働きでお世話くださった藤田廣登さんはじめ、旅を支えてくださった地元同盟の方々、事務局の皆さんに心から感謝したい。