東海道、鶴見から神奈川宿まで

16.12.06


 5月以来の「東海道散歩」に出かけました。前回は、川崎宿から鶴見まで歩きました(5月25日付ブログ参照)。

 今回は、京急鶴見駅からのスタートです。歩き始めて間もなく、JR鶴見線のガードにぶつかりました。今の大企業・財界は、何かというと国や自治体に金を出させて開発し、自分たちは甘い汁だけを吸うという堕落した情けない姿をさらしていますが、昔の大財閥は、良くも悪くも必要があれば自前で海を埋め立て、鉄道を通しました。鶴見線の駅名には、その名残りが残っています。「浅野駅」は、鶴見線の前身「鶴見臨海鉄道」の創設者・浅野財閥の浅野総一郎にちなんだ駅名です。「安善駅」は、「臨海鉄道」を支援した安田財閥の安田善次郎に、また「白石駅」も、日本鋼管創業者の白石元治郎にちなんだ命名です。
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 そのガード下は、日本共産党のポスターや看板で占められていました。ガード下の建物が、地元のセンターででもあるのでしょうか。実に、気分のいいことでした。

 しばらく行くと、今日のお目当て、「生麦事件」の現場に到着です。4人のイギリス人(うち一人は女性)が、川崎大師へと馬で遊山に出かける途上、この生麦で薩摩藩・島津久光の行列とぶつかります。文久2年(1862年)のことでした。
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 「マーシャルたちは、前方に道いっぱいに広がって進んでくる集団に気づき、顔色を変えた。豪華な久光の乗物が六尺たちにかつがれ、その両側を駕籠廻りの者がかため、それは四間(七.二メートル)ほどの幅の道を圧して近づいてくる。マーシャルたちの馬はいずれも肥えていて、二頭ずつ並んだ馬体と駕籠廻りの者とが接触することはあきらかだった。マーシャルたちは、馬をとめた。」(吉村昭「生麦事件」から)

 緊張から、馬の操作にも乱れが出て、激高した供頭・奈良原喜左衛門が、先頭にいたリ
チャードソンの胴を切り上げたといいます(その場は逃れたものの絶命)。他の者たちも重軽傷を負いました。

 道幅は、おそらく当時のままと思える道をさらに行くと、リチャードソンが絶命した場所に碑が建っていました。(高速道路の建設のために200メートルほど移動したということです)「文久2年八月二十一日英国人力査遜」の文字が読み取れます。
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 この事件が、「薩英戦争」を引き起こすことになります。圧倒的な軍事力(科学・技術力)の差を体験した薩摩藩は、これをきっかけに、攘夷から開国へと立場を変え、やがて長州との連携に踏み出し、明治維新へとつながっていくことになります。

 歴史の現場とその同じ道を歩いている感慨に浸りつつ、しかしやがて道は、国道15号線(第一京浜)と一体になります。そうしてふと気づくと、本陣跡の説明版がありました。神奈川宿へと入ったようです。

 15号線をそれて、それらしい道に入っていくと、「神奈川宿歴史の道」の案内板が、頻繁に出てくるようになりました。「甚行寺」。山門前に、「開港当時、本堂は・・・フランス公使館に充てられた」と、説明があります。
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   写真   なにやら上機嫌の私の奥さん
 続いて、これもお目当ての「本覚寺」。あのハリスのいたアメリカ領事館です。当時、高台にあるこの寺からは、神奈川の港が一望できたそうです。領事館当時、山門を白ペンキで塗ってしまったようで、今も、山門の彫り物のあたりに白いものが残っているように見えました。相手の国の文化も伝統も、気分・感情さえも顧みない、いかにも植民地時代の乱暴なやり方だと思いました。
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   写真   白ペンキで塗られてしまったという本覚寺の山門   
 そのあとも、東海道を少し戻る形で、フランス領事館(公使は、外交。領事は、その国の住民保護が中心)がおかれた慶雲寺やあのヘボン式ローマ字のヘボンが住んだ成仏寺、さらには移築再現された「高札場」などを見て、JR東神奈川駅から、帰路につきました。1万8千歩の旅でした。
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 次回は、神奈川宿から保土ヶ谷宿をめざすことになります。

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